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メモ

個人的なメモです。他者にわかりやすく書くよりも未来の自分にわかりやすく書いています。なお、記事内容の正確さは保証できません。勉強中の身ですので、間違い等ご指摘頂けたら幸いです。

研究室にslack分報を導入してみた話

はじめに

今回は分析系の話ではなく、研究室にslackの分報を導入してみた話をまとめてみる。以下では、まず私が所属している研究室の様子を記述する。その後、slack分報の概要を示す。最後に、slack分報を導入してみて生じた事、考えた事をまとめてみる。

研究室の様子

垂直的要因

私が所属する研究室はとても不思議である。まず、異なる専門の先生が5人「コース」にいる。我々はその「コース」の事を「研究室」と呼んでいる。すなわち「研究室(コース)」には5人の先生が所属している。その内訳は、教授が2名、准教授が3名である。それらの先生の専門はそれぞれ異なっている。ただし、いずれの先生も「社会科学」という枠組みでは一応同じであるという事になっている。しかし、方法論、対象、考え方がそれぞれ全く異なっている。また、〇〇学(例えば、経済学や社会学)という単位でも異なっているし、所属している学会もバラバラである。
学生は20名弱存在する。それら20名弱の学生は制度的に同じ「研究室(コース)」に所属しており、物理的な研究室も共有している。よって、日頃から顔を合わせている。また、2週間に1回程度のペースで全員が集まるゼミなるものも開催されている。仮に、このゼミを「全体ゼミ」としよう。「全体ゼミ」で、「研究室(コース)」全体として活動するだけではなく、4月には新入生歓迎会など「研究室(コース)」単位での活動は少なくない。なお、学生らは上述した5名のうち1人を指導教員として入学以前に決めている。基本的には、その指導教員のもとで指導を受けながら学位論文を執筆していく。指導教員がその学生らのみで行うゼミもある。仮に、このゼミを「個別ゼミ」としよう。「個別ゼミ」の頻度は指導教員によって異なっており、そもそも行なっていない指導教員もいる。その場合は、学生が指導教員と1対1の対話方式で指導を受けたりする。とにかく、これら指導教員ベースの活動全てを「個別ゼミ」としよう。日常的には「個別ゼミ」での活動がベースとなっている。よって、「全体ゼミ」では「個別ゼミ」での成果を「研究室(コース)」全体に発表するという形式となっており、「全体ゼミ」で発表する学生の発表内容は、指導教員は既に知っている事が多い。指導教員は日常的に「個別ゼミ」で育て上げた学生を全体の場でお披露目するという感じである。実際、「全体ゼミ」では指導教員から質問や批判が飛んでくることはほとんど無く、指導教員以外の教員からの質問や批判が飛んでくる。
以上のように、私が所属する「研究室(コース)」には異なる指導教員を持った学生が集まっており、ふわりと「社会科学」という枠組みで「研究室(コース)」が(一応)まとまっている。日常的には「個別ゼミ」での活動がメインであるため、物理的な研究室は同じであるものの、異なる指導教員を持つ学生が今何の作業をしているのかわからない事が多い。また、それぞれ専門分野も異なるため、研究内容を聞いてもよく分からない事が多い。さらに、教員同士のカルチャー、指導方針が異なるため、そのもとで育つ学生の研究内容も異なる事が多い。よく言えば、ダイバーシティのある「研究室」、悪く言えば寄せ集めの「研究室(コース)」と形容できる。
以上のように、私が所属する「研究室(コース)」はダイバーシティあるいは寄せ集めのそれである。この多様性は、「研究室(コース)」に配属されている先生の専門の相違、その指導方法の相違、「個別ゼミ」のように先生毎に指導を行うという慣習によって生み出されていると解釈できる。その意味で、学生の立場から見れば「垂直的要因」と言える。上から降ってきた要因というイメージである。

水平的要因

それに対して、「水平的要因」によって「研究室」がダイバーシティあるいは寄せ集めになっているとも言える。それが、「研究室」に入ってくる学生の多様性である。
まず、内部入学と外部入学という違いがある。学部生の時から、この「研究室(コース)」に所属している者とそうではない者では知識の量、質も異なれば、「研究室(コース)」へのコミットメント意識も異なる。また、年齢による違いもある。私が所属している「研究室(コース)」は社会人入学者も多く、年齢の分散が大きい。年齢効果か世代効果かコーホート効果か分からないが、やはり年齢によって考え方が異なる時がある。多浪生も多く、同世代でも細かな年齢が異なることも多い。さらに、留学生も多い。留学生の「研究室(コース)」への所属意識と日本人の「研究室(コース)」への所属意識は異なる事がある。最後に、男女の違いがある。うちの「研究室(コース)」には比較的女子も多く、女子同士で集まったりしている時もある。もちろん、男子同士で集まって「男らしい」会話をする時もある。
このように、研究室に所属する学生は多種多様である。もちろん、どの研究室も多種多様なのだろうが、これほどまでに目に見える学生の属性が多様な研究室も珍しいのではないだろうか。これら学生による属性の違いを、上記の「垂直的要因」に対して、ここでは「水平的要因」とでもしておこう。
以上をまとめると、私の「研究室(コース)」は「垂直的要因」と「水平的要因」によって縦横にいくつもの糸があり、それによってモザイク状になんとかまとまった一つの絵が描き出されている状態にあると言える。しかし、その絵は「なんとか」まとまっているに過ぎず、いつ切れてもおかしく無い様子である。また、共同研究といった協力行動もほとんど行われないため、基本的には個人作業が多い。学生は、毎日のように研究室に来て「個別ゼミ」を受けながら学位論文執筆のために黙々と作業を進めるのである。
この状況に対して「気持ち悪さ」を感じていた。というのも、水平的要因によって互いに仲を深めて深い話をするわけでもなく、また垂直的要因によって互いの状況(例えば、今どのような作業、研究をしているのか、就活をしているのか等)が分からないことが多いのである。物理的な研究室は共有しているので顔を合わせる頻度も少なくない。しかし、研究室では基本的に私語禁止だし、単に表面的な挨拶を交わすだけのコミニケーションにとどまる事が多い。よって、共同生活をしているものの相手が何をしているのか、何を考えているのかが分からない事が多いのである。この状況に違和感を覚えずにはいられなかった。

slack分報

そこで、互いのコミニケーションを活発させ、お互いに今どのような作業をしているのかを共有するためにslack分報を導入してみた。slack分報については以下の記事がわかりやすい。

c16e.com

note.mu

slackの分報は日報との対比で考えるとわかりやすい。日報は、その日のうちにその日の業務をあるフォーマットに従って記入する。それに対して分報は分単位でどのような作業をしているのかを記入する。ただし、毎分必ず報告する必要はないし、フォーマットもない。基本的にはどのタイミングでどのようなことを報告するかは自由である。別に、その時の気持ちを報告しても良い。例えば「疲れた」とか。要するに、研究室専用のtwitterみたいなものである。それをslack上で行うのである。具体的には、各個人専用のチャンネル(例えば、田中さん専用チャンネルなど)を作成し、そこにその他の人以外(田中さん以外)も招待する。その個人専用チャンネルで田中さんが報告するのである。このような個人専用チャンネルを一人一人に作っておき、そこでその個人が報告する。もちろん、そのチャンネルで報告された内容に対してその他の人が返信したりしても良い。

導入して生じたこと

以上のようなslack分報を導入してみた結果、研究室でどのようなことが生じたのか。
まず、容易に想像できる帰結として情報共有が進んだ点が挙げられる。slack分報では論文などの研究情報のシェアも行われているし、例えばある人が学会に参加し、その様子をslack分報で報告することで、学会に行かずともその様子や学会発表内容がわかることもある。また、計量系の人は特にだが分析の際に役だつちょっとしたコードを公開したりすることもある。また、今やっている作業も報告しあっているので、ある程度互いが何を行なっているかに対する情報共有ができている。
ただし、意図せざる結果も生じてしまった。slack分報を導入するときに強制的に各個人の専用チャンネルを作成するのではなく、「このようなslack分報という考えがあるので、皆さんも各自でチャンネルを作ってやりませんかー?」という形でやりたい人が自発的にやろうという形式をとった。そのために、slack分報をやる人とやらない人とが分かれてしまった。また、強制的にチャンネルをつくって「やろうよ」と誘ってみたりもしたのだが「情報が多すぎると嫌だから」という理由で断られたりもした。よって、slack分報をやる人とやらない人とが出てきてしまい、上記の垂直的要因と水平的要因による分断だけではなく、新たな分断要因である「slack分報要因」が生まれてしまった。slack分報をやっている同士は互いが何をやっているのか、何を考えているのかがよくわかる一方で、やっていない者はそれをわからない。よって、face to faceで話をするときに若干のズレが生じてしまう事が出てきてしまった。もちろん、この「slack分報要因」が生まれる前からそのようなズレは垂直的要因や水平的要因によって生じていたのだが、「slack分報要因」によってそれがより顕在化した。